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痴呆症

 このところなんとなく強いストレスを感じている。気圧の乱高下のため、お葬式が多いことも一因ではあるが、どうも中心的な原因は違うような気がする。最近、「不老」に関する座談会とか、ラジオでの小椋佳さんとの対談など、メディアを通じて話す機会が多かったのだが、その際、どうしても「認知症」という表現を使うことを強制されたり、他人が使うのを傍観せざるを得なかったりが続いた。そのせいではないかと思う。 
 ことの始まりはNHKだった。「知るを楽しむ」の4回シリーズに出演し、その4回目のときに『龍の棲む家』を取り上げてくれたので、私はなぜ「痴呆症」という表現にこだわるのかも全て話した。「認知症」という表現はしたくないと、そのとききちんと理由も含めて話したのである。ところがその部分は全面的にカットされた。そしてラジオのニッポン放送も、放送規約というか、国からの要請書が来ているからダメだというのである。
 そこで私は、この場をお借りしてもう一度なぜ「痴呆症」なのかを書いておきたい。
 「認知症」という言葉は、じつは私が考えた、という厚労省の方にお会いしたことがある。そのとき私は、なぜ「痴呆症」ではいけないのか、と訊いてみたのだが、彼の答えは「そりゃあ、痴呆って、白痴と阿呆でしょう」というものだった。少なくともそのイメージを喚起する差別的な雰囲気があるから、というのである。これに対してまず反論すると、「痴」というのは本来、「貪・愼・痴」とも云うように、誰にでもある煩悩の一つ。偏った認識のことである。仏教的に云えば、世の中に正しい認識などないのであり、誰もが偏った認識をしている。たとえば花の名前なら何でも知っているとか、釣りのことならとても詳しいというように、場合によっては専門家というのも一つの痴になる。また「呆」についても、突っ込まれれば呆ける、というように、誰もが経験する「私」のいない状態である。時にこの「呆」は三昧の挙げ句に目指す境地にさえなることもある。だから、「痴」も「呆」も、特定の人々を指す差別語などでは断じてないのである。
 次に問題なのは、「認知症」ではなぜいけないのか、ということだが、このような日本語が認められると、呼吸のうまくいかない場合は呼吸症になり、歩行に不自由があれば歩行症という表現が可能ということになってしまう。だったら「認知不全症」とか「認知失調症」というなら妥当ではないかと云われそうだ。実際、そういう提案をしている人々もいるらしい。しかしあの病状は、認知だけの問題ではなく、認知・判断・行動ともに変化するものだから、それだけでは狭いのである。介護の専門家でも今尚「痴呆症」という表現を使っている人々は実際にいて、理由もだいたい以上のようなことのようだ。
 私は、「痴呆」という言葉に、ある種の可愛らしさを感じる。可愛らしさというと、誤解があるかもしれないが、要するに「痴呆」とは、「痴」という人間らしさに、「呆」という脱個性を意味する文字が組み合わさっている。「呆」とは、ときに神さまの通り道とさえ思えるのである。
 そういうわけで、私は今後も「痴呆症」という表現を使いつづけるつもりなので、ご了承いただきたい。いや、諒承してくれなくとも使います。 先日、『龍の棲む家』と「Aデール」を読んで感銘を受けたというNHKのディレクターから電話があった。理想的な介護の現場を紹介したいので、コメンテーターとして出演してほしい、という依頼だった。しかし私は、それなら「痴呆」という言葉を生き返らせるために、以上のようなことを申し上げたいのだが、どうか、と訊いた。むろん私だって、少ない時間のなかでそんな時間はとれないだろうと予測していた。 案の定、「それはちょっと」と云うので、お断りした次第である。このままだと、国が権力的に作り、押しつけた間違った日本語が、どんどん波及してしまう。いや、すでにそうなりつつある。なによりどこの放送局も、国の言いつけに従順だからである。小椋佳さんはそんな規制があることはご存じなく、「え? 痴呆症って、ダメなの? どうして?」と訊いていらしたから安心したが、番組のなかでは否応なく「認知症」という表現になってしまっている。
 ああ、もどかしい。このまま「認知症」が広がってしまうのだろうか。こんな日本語が、まかり通っていいのだろうか。こう書いて、少しはすっきりしたが、やっぱりまだまだ。
 さあて、気分を変えて、お通夜に行かなくては。

書籍情報



題名
龍の棲む家
出版社
文藝春秋
出版社URL
発売日
2007/10/12
価格
1143円(税別)
ISBN
9784163263700
Cコード
ページ
156
当サイトURL


題名
【文庫】龍の棲む家
出版社
文藝春秋
出版社URL
発売日
2010/5/7
価格(税抜)
514円(税別)
ISBN
9784167692056
Cコード
C0193
ページ
208
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