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新年のご挨拶

 新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

 昨年の年頭挨拶を読み返すと、新しい基準が作られ、一揆の起きるべき歳だと書いてあった。新しい基準とは、昨年末に強引に定められた特定秘密保護法だろうか。そこでは一揆のような動きもあるにはあったが、まとまった力にはならなかった。
 どうにも怪しい年明けなのだが、ともあれ今年は歳もあらたまり、干支も甲午(きのえ・うま)になる。
 甲は「よろい」も意味するように、植物で言えば「かいわれ」、つまり殻を破って芽を出すことである。いったい何の芽かと訝ってしまうが、午歳であるから、これまで日の目を見なかった「陰」の気であろうと推測される。
 「午」という字は、第一画と第二画とで地表を意味する。その下の横一が「陽」の気、縦一が地下から吹き上げる「陰」の気である。双方の気がクロスして交わるのだから、これほど生産的なことはないが、「陰」の気とはどのようなものなのかが更に気になる。
 人間の身心のはたらきの中では、大雑把に言えば枝分かれするのが「陽」、包摂するはたらきが「陰」と言える。地下深くから吹き出す「陰」のエネルギーとは、おそらく東日本大震災以後、じっと根のように表面化せず、広がり深まっていた叡智でなければなるまい。いや、むしろ慈悲と言ったほうが正しいかもしれない。
 たとえば福島県では、放射線への対応をめぐる分断やお金をめぐる分断など、さまざまなレベルの分断が明らかだが、こうした「枝分かれ」は「陽」の特徴であるから、全体を包み込む力が今こそ必要である。結果的にそれは旧弊を破る革新的なパワーになるわけだが、おそらくそれは、現状では政治的な革新勢力に期待できるようなものではないだろう。去年起こらなかった一揆をまた期待するほど、私たちもお人好しではない。

 むろん、政治は政治で地道な営みを支援しはじめてもいる。医薬品やロボットの開発施設など、福島県にはこの厄介な現状を打破するための、幾つもの革新的な動きが胎動しはじめた。放射能研究のための国際的施設も建設される予定だし、それを官製の「陰」の気の噴出とみることも可能だろう。
 しかしそこで気になるのは、あまりに大雑把なお金の動きである。実際、福島県と沖縄県に対し、政府は特別枠でお金を動かそうとしているのを感じる。去年の「とにかく経済」から、基本的には全く変わっていないのである。
 お金の動きは、けっして良い事ばかりを引き起こすわけではない。特に大雑把すぎるお金の動きにつれて、現実にはさまざまな業種で値上がりが急激に進行し、極端な人手不足のなか、入札不調が相次いでいる。働く人もおらず仕事は過剰、そんな状態で宙に浮くお金を狙う暴力団員がすでに二十八人も検挙されている。お金がコミュニティを分断するだけでなく、すでにそこは防衛機能さえ失いつつある。また個人の心も分裂している状況かもしれない。
 福島県内で昨年行なわれた首長選挙では、相馬の立谷秀清市長以外はみな(特に郡山、いわき、伊達、二本松で)現職が敗れた。しかしこの結果を革新の力だと考えるのは早計である。そこに蠢いていたのは、原発誘致の頃から変わっていないお金への欲求ではなかっただろうか。詳しくは書かないが、選挙に勝った新人のカードはいずこも「更なる賠償請求」であったと思えてならないのである。
 「陰」の沈思力が打ち破るべき相手は、むしろこの「お金」への散漫な(枝分かれする)欲望ではないだろうか。
 ならば本当の問題は、政治や行政のあり方ではなく、自らの心の調え方ということにもなる。
 「知足」、あるいは「喜心」という言葉を、今年は提案したい。
 いきなり精神論と驚かれるかもしれないが、種の殻を破るカイワレも、決して自ら硬く尖っているわけではない。「太陽と北風」じゃないけれど、大いなる革新とは、日常的ななにげない小さな積み重ねの結果であろう。
 今年は「知足」元年、いついかなる場面でも「喜心」を忘れずに進んでいきたい。「喜心」とは、本来は人間として生まれ、仏法に出会えた喜びのことだが、基本的にはあらゆるご縁を喜びにできる自立した感性であり、それこそが「足るを知る」心の本質だろうと思う。
 偉そうなことを書いてしまったが、今年はある編集者と震災前に約束した長編小説も必ずや手がけねばなるまい。いつまでもあの方の「喜心」にすがるわけにもいかないと、元旦から襟を何度も正しているのである。一度でいいのに何度も正すあたりがじつに心許ないが、そういえば「陰」のエネルギーの噴出とは、もしかしたら作品の成形なのかもしれない。

2014甲午歳元旦 玄侑宗久 拝