日: 2011年4月9日

避難と移住

 避難所の子供たちが学校に通いはじめた。それぞれの避難所から、最寄りの学校に、である。子供は柔軟だし靱いから、どんな環境にも溶け込み、すぐに友達をつくってくれるだろうと期待しているが、それにしても辛い新学期である。これまでの友達がどこにいるのかも分からない。連絡もつかない。そんなケースが目立つ。
 たとえばこの町にいる富岡町の人々も、もともとの人口は15,800人くらいだった。ところが現在所在が判っているのは7,000人余りにすぎない。郡山市のビッグパレットには1,200人ほどおり、三春町には約300人がいる。ほかに姉妹都市の埼玉県杉戸にも250人ほど、大玉村にもある程度いるらしい。そのような状態のなかで、三春町に建つ仮設住宅が 200戸分、郡山には300戸分ができることになった。この状態は、おそらく一つの行政単位の人々には初めての経験だろう。
 戦時中の「疎開」はもっと個人的だった気がするが、あの時は皆いずれ戻るつもりだった。今回は、今後の展望を考えると、あるいは「移住」と考えたほうがいいのか、とも思えてくる。
 町職員は、必死に役場機能を再建しようとしているが、こうした分散居住のままで町のアイデンティティーを保つのはじつに難しいことだ。実際、現在も亡くなる人がいるなかで、埋葬許可証を発行することもできず、居住する行政区に検屍なども依存する状態が続いているのである。
 子供たちは、きっとすぐに地域に溶け込み、新しい友達もつくっていくことだろう。しかし、溶け込みすぎては町の自立性が危うくなってしまう。地域に伝承された祭などの行事も、その土地に居たからこそ続けてこられた面が多いだろう。中国や韓国から日本に来た人々が、故郷の伝統芸能を保存している例もあるが、今回「避難」した人々が、今後「移民」として町の独自性を保っていけるかどうかは大きな問題になるだろう。
 三春町にはまた葛尾村からも「移住」してくることになり、もともと460戸だった住民の殆んどが400戸の仮設住宅に住むことになる。これはもう、「合併」にちかい事態である。しかし勿論そう考えてはいけないだろうし、それならどう考えたらいいのか、考え込んでしまうのだ。
 世界に分かれて住むユダヤ人や中国の華僑の人々。あるいは中華街さえ想ってしまう。
 困ったときはお互いさまだし、仲良くやりましょうや、大勢のほうが賑やかでいい。それで迎え受ける町側にさほどの不都合はない。しかし分散居住や村ごと移住する彼らにすれば、そんな気楽なことは言ってられない。今後、仕事を見つける問題も含め、「避難」後には問題が山積しているのである。