日: 2011年4月16日

復興税

 15日の新聞を見て驚いた。「復興税」と書いてあるではないか。たしか14日の会議のなかでは、議長である五百旗頭氏の提案としてそのようなことが話された。しかしそれについての議論はなにもなされていないし、むろん決議もしていない。幾つかの新聞を見てみたが、まるでそれが第一回復興構想会議からの提案と読めるような書き方のものも散見された。
 不思議になって副住職に録画しておいてもらったVDVを見てみると、五百旗頭氏はちゃんと「個人的にはそう思う」と付け加えている。個人的な見解なのに、議長の発言だし、まるで総意のように受け止めたマスコミがいたということだろうか?
 これはちょっと怖いことである。
 いずれにせよ、議長発言を正確に聴けば、まだ個人的な見解なのだから、今後の会議において検討すべき課題ということなのだろう。
 ところでこうなってくると、大震災まえのこの国の財政状況のことが俄かに憶いだされる。とにかく赤字国債は空前絶後、懸案の政策を実施するにも先立つものを如何に確保するかが喫緊の問題であったはずである。
 俄かに浮上した「復興税」に焦臭い印象をもつ人もきっといるはずである。7月の概算要求の前になんとか増税の手だてを探っていたことも確かなはずだし……。そうなると、財務大臣が交代になり、その新財務大臣が東日本大震災の損害を早々に計算してみせたことも引っかかってくる。
 だいたいあの与謝野大臣の発言は、私には無性に腹立たしかった。いったいどういう計算方法で損害をはじき出したのか、死者一人はいくらに計算されているのか、いや、死者の総数さえ分からない時点での計算だったのだから、人間の死は全く関係ないということか、あれこれ考えても何も分からず、まして計算方法など思いつくはずもなかった。そうして堂々巡りのように、私は怒りに熱くなった頭で「何のために」「どんな意味があって」「どうやって」と自問にもならぬ自問を繰り返したのである。
 そんなことを憶いだすと、今度の「復興税」というのも急に政治的な色合いを帯びて見えてくる。いやいや、しかし、まだ何も決まってはいないのだし、そんなことは考えないでおこう。
 しかし問題は、もしも「復興税」なるものがあり得るとして、どんなふうにかけるのか、ということだ。
 本当に多くの人々が、すでに義援金としてそれぞれに寄付してくださっている。
きっと今後も、寄付金は増え続けていくだろう。寄付では予算化できないから、税金にしようと発想したのが京都の古都税だったわけだが、あの時のような不快感を国民に与えるようなことがあってはなるまい。ならば特定の、たとえば「遊興」と呼べるような行為のみにかけるか……。これはかなり難しそうだ。
 まさか全ての商取引に、などということになれば、これはもう「消費税」と同じになってしまう。たとえ誤解であっても、そう思われるようなやり方をすべきではないし、その場合、被災者を区別して除外する厳密な方法もないはずである。
 考えれば考えるほど難しい。
 それにしても、復興構想会議は、机上の青写真では済ませたくないが、財政まで考える組織だったのだろうか?