新年明けましておめでとうございます。本年は戊子(つちのえ・ね)の年回り。60年前は1948年つまり昭和23年に当たり、戦後のベビーブームだった。戊の本意も「茂」に同じ。また「子」も本来「しげる、ふえる」の意味だから子だくさんになるのも無理はなかった。
昔から、子は動物のネズミに喩えられる。ネズミは大国主命がスサノオの命に狙われ、平原に火を放たれたとき、その巣に匿って大国主命を救ったとされる。ネズミも「ねずみ算」と云われるほどに子だくさんだが、大国主命もなんと200人ちかく子供をもうけている。ネズミが住み着くとその家は豊かに栄えると云われ、後には大国主と大黒さまが習合し、米俵に乗った大黒さまの横にもネズミが祭られるようになる。じつにうまい組合せだが、果たして今、ネズミはそれほどに愛されているだろうか。
どうも世の中の「一枚見識」が気になる。ネズミは家を荒らす不潔な悪い奴。それ以外の見方を知らないかのようなのである。
そのような一枚見識を、禅はとても嫌う。合理的な一つの解釈に落ちついてしまったら、その心はなにも産みだしはしないからである。
水到って清(す)むときは魚無く、人至って察するときは徒無し。
非常にクリアで見透かされる水には魚も棲みにくいし、人もまた、一つの基準で解ったようなつもりで見られると育たない。水には陰翳が必要だし、人にもゆらいで相対化する余裕が必要なのである。
まさか60年前のように、一気に少子化が反転するとも思えないから、今年はこのことを気にしながら暮らしてみたい。思えば「つちのえ」には陰陽煩雑する意味もある。陰陽こそ最大の相対化ではないか。
絶対こうだ、これこそ絶対だと、思った途端に凋んでいく心の生産力。
心も「戊子」として茂り増えていけば、それは「やほよろづ」になる。そのためには、この心を相対化する力こそ、絶対大切なのだ。あれ? なんか、おかしい……。そう、絶対は、絶対あってはならないのだ。
このことを肝に銘ずるため、うちの茶の間に20年ちかく掛けてある短冊を紹介しよう。「仏祖乞命」。平田精耕老大師の筆だが、仏祖も命乞いをする、とはいったい何のことか。それは臨済禅師の言葉を憶いだせば分かる。仏に逢っては仏を殺し、という相対化の力を、我々は常に求められている。だから仏が命乞いをしているというのだ。 ああ、絶対そうだ、なんて思わないでいただきたい。
ともあれ、今年も何が飛び出すか、どうぞ宜しくおつきあいください。
現在、元朝の午前1時半だが、まさに臘雪夜陰に白く映え、新春の生気が満ち満ちてくる。 平成戊子年元旦 玄侑宗久 拝