6月14日、久しぶりに予定表の書き込みがなかったので、相馬まで出かけた。城跡と中村神社にお参りしたあと、学校教育課と文化財担当の課長さんから状況を伺い、その後立谷秀清市長さんにお会いしてじっくりお話を伺った。
非常に所得の多いお話だったので、是非ご報告しておきたい。
市長さんはもともと内科のお医者さんなのだが、初めに伺った話は原発事故のあと、南のほうから崩れてくる病院の危機の話だった。崩れてくる、危機、などと言われても理解できないだろうが、要するに、放射能を怖がる看護師さんたちが次々と逃げていき、病院での医療が成り立たなくなっていったのである。物流がとだえ、医薬品も次第に届かなくなる。決定的だったのは酸素である。不足気味の看護師や医薬品はなんとかやりくりできても、吸入用の酸素がなければどうにもならない。そうして病院が次々に閉鎖されていったのである。
立谷市長は、事故の当初から肚を据え、「籠城」の覚悟を職員たちに説いていた。
曰く、「ごはんと梅干しがあれば何ヵ月かは籠城できる」。この覚悟があればこそ、病院も続け、市民を力強く誘導できたのだろう。
背景には、やはり医療者としての見識も感じた。
「通常、年間3mSvくらいは誰だって浴びてますよ。1mとか2mなんて問題にならない。おそらく5mでしょうね、基準になるのは。それほど線量も多くないのに、窓締めてカーテン締めて家に籠もってたら、そっちのほうが体に悪いでしょう。だいたい、避難してきた人の血圧測ると、どうも20~30くらい高いんですよ。放射能じゃなくて、心筋梗塞のほうがよっぽど怖いですよ」
避難指示にしても、どうしてあんなやり方になったのかと批判的であった。
「たとえば年間の放射線量として危険だと分かっても、べつに一年間そのまま浴びるわけじゃない。それは一ヵ月だったらどのくらい浴びることになるのか、それがどれほど危険なのか、冷静に分析すれば、たとえば一週間かけて避難することは充分アリだったはずですよ」。
とにかく底なしのように被曝を怖がっている現状に、市長さんは医者であるがゆえの安心を与えられるのが強みである。若い時に医師として浴びたレントゲンからのX線、それゆえの確信も、市長には強くあるようだった。
しかしそうは言いながら、不安の多い学校内については、一校50ヵ所のメッシュ検査を決めた。いわばミニ・ホットスポットのような危険区域をあぶり出すのである。
震災後に限らないが、とにかく市長の仕事は多岐にわたる。
死者432人、行方不明者27人、そのうち児童生徒の死者は19名おり、孤児になった子どもが4名、片親だけになった子が21名いる。相馬市は独自に月3万円の生活支援を決めた。
私自身、最も気になっているのは大熊、富岡、双葉、浪江など、いわば原発直下の町から人々が分散してしまった行政の今後の行方である。市長さんは、「まず『戸籍の番人』としての役目を果たすべき」ときっぱり言い、そして「双葉コロニーを守る気なら、どこか場所を決めて集まるのも手ではないか」とおっしゃった。「住民への意向調査もするべきではないか」。
この辺りは、本当に深刻な問題である。意向調査をしても気持ちは変わり続けるだろう。各地に分散したままその土地で仕事を見つけ、アパートを借り上げてもらえばある程度落ち着きもする。どうせ元の家に戻れないなら、いっそここに住みつこうかと考える人々も増えてくるだろう。いわば自然溶融のような形で、双葉コロニーが溶けだしつつあるのかもしれない。
なるほど住民への意向調査は正論なのだと思う。しかしそうするにしても、国のはっきりした支援表明がほしい。また葛尾、川内、川俣、飯舘なども含め、今後の展望が分からないままに意向調査するのは酷な気もする。しかし一方で、このまま座視していれば自然溶融が進むだけにも思えて怖い。にっちもさっちも、とはこのことかもしれない。
原発からの方向や距離によって、各行政はさまざまに色分けされた。どこにでも通用する復興策などないと云えるだろう。相馬は原発からほぼ真北に45キロだから距離的には三春と同じくらいだ。しかし市長さんは、「地面と水面の温度差で基本的な風が起こるわけだし、真北にはまさか来ませんよ」と当初からじつは自信を持っていたようだ。
原発や放射能からの避難民よりも、地震や津波被災者のほうが多い相馬市。そこにはやはり独自の施策がある。市長さんの方針はじつにはっきりしていて分かりやすいのでご紹介しよう。
「考えるに、何をもって『復興』を定義するかと言えば、それぞれの世代で被災者の人生設計が可能になることではないだろうか。
子どもたちの将来のために充分な教育体制を築き、孤児・遺児には生活支援をしながらしっかり育てること。特に単独世帯をはじめとするお年寄りには、安心な生活と医療介護体制を提供すること。
青壮年の世代には産業の復活と雇用の確保。
これらの大きな課題を達成するために、瓦礫を撤去して土地利用を図り、安全で安価な住宅を提供し、また漁港や農地を復旧するのだ。さらに、土地利用の知恵を縛り、住宅取得の無理のない方法を考え、漁業や農業の新しい経営方法や事業形態を生み出し、それぞれの年齢層で将来像が描けるようになるために、ハード事業を細心の注意を払って展開していこうと考えると、復興計画の意味が見えてくるようになる」。(相馬市長メールマガジン6/12号より)
瓦礫は22万トンにも及び、現在はまだ6~7万トンしか処理しきれていない。秘書課の宇佐見さんにご案内いただいた原釜地区も松川浦も、今後どうなるのかまるで見えない。
しかしなぜか相馬の市中にはすでに古い城下町らしい落ち着いた空気が漂っている。神社で飼われている馬たちも猫たちも、すっかり安らかなのである。これは神社に石像のある二宮尊徳翁の遺徳だろうか、それとも現市長の信望と統率力のお陰だろうか……。
相馬市長メールマガジンNo.254(2011年6月12日号)
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/melma/20110612_melma.html