5月29日の復興構想会議では、検討部会で検討されて戻ってきた幾つかの問題について、かなり幅広い議論が行なわれた。特に「特区」構想の在り方について議論が深められ、詳細はともかく今回の復旧・復興にはこれまでの制約を外したり優遇措置を講ずるなど、「特区」の設定は不可欠であろうという点で全員が一致した。
梅原先生からは「その際、文化的な視点も忘れないでほしい」と注文がついた。これはありがたい発言だった。文化とは何か、この際もう一度深く考えてみる必要があるが、その土地土地で歴史的に守られてきた文物や習俗、生活慣習などを広範に意味するなら、神社仏閣はその中心的な存在と云えるだろう。
今回の震災で被災した寺院だけでも5,000ケ寺を超える。また神社の場合は、施設が壊されただけでなく、じつはもっと甚大な被害を受けている。それはご神体として歴史的に祀られてきた岩や水や大木など、いわば神社の本体とも云うべき自然物が、放射能によって穢されたということだ。海山という自然そのものが我々矮小な人間を浄化してくれる。簡単に云えば、それこそが日本の神道の存在論的根拠であったはずである。その根拠が、福島第一原子力発電所の事故によって根こそぎ奪われたのだ。
水に入り、山に登って身心を浄化することができなくなったとすれば、原発事故は我々の古代からの文化そのものを奪ったのである。
このことへの謝罪が果たして可能なのかどうか、私には判らないが、とにかく施設への復興援助は、必ずや東電あるいは国家によって成されなくてはなるまい。
今回私が緊急提言した内容については、首相官邸のHPで見ることができる。
http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/kousou7/genyu.pdf
会議で申し上げたのは、最終的には動物たちと共に生きてきた東北人たちの救済の話である。「曲がり屋」という家の形にも残る牛馬と一体の生命観をもつ人々が、今、飼っていた牛たちを安楽死させる承諾ができず立ち往生しているのだ。
地震や津波だけならこんな問題は起こらなかった。すべては動物たちが放射能を浴びているせいなのだ。ペットはほとんど除染すれば問題なかったというが、牛は放射性セシウムをふんだんに浴びた草を食べているため救えない、いや、たぶんそうだろうから安楽死させるというのだ。警戒区域に置き去りにされた牛たちがいまだに生きているのが不思議に思えないだろうか。そう。立入禁止になってからも、多くの飼い主たちが隠密に侵入して餌を与えている。その人々の思いを、私はなんとか汲んでほしいのである。
安楽死を委託された獣医師たちの苦悩も計り知れない。また承諾できずにいる人々の苦悩は、もはや畜産家としての踏み絵のような、実存的苦悩と云ってもいいだろう。筋弛緩剤を注射し、消石灰をかけ、ブルーシートをかけたまま飼っていた牛を放置するという所業は、畜産家としてというより、これはもう人間としての踏み絵を迫られているのではないだろうか。
農水省の畜産企画課の課長は、なんとか放射線量を測りながら、埋設できる時期を探りたいと私に告げた。しかし安楽死を承諾しない人々についてはあくまでも「丁寧にご説明してご理解いただく」というのみ。これは一見、依頼文のように聞こえるが、じつは柔らかながら変更はありえない、非常に強い命令なのである。
福島県にはまた一つ、地獄のような景色ができることになる。「放射性廃棄物」として横たわる牛たちと一面のブルーシートの凹凸。
丑寅(うしとら)虚空蔵尊を祀る我が福島の風土に、そんな風景が広がることを、いったいどのような文化が許し得るだろう。
天災だけでなく、むしろ人災こそがより重大なダメージを文化に与えた。それは間違いない。「特区」構想に文化を含めるのはあまりにも当然である。