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「二年半」を思う

 以前「うえの」という機関誌に、「二年」を思う、という文章を書いた。半年前には何を思っていたのか、気になって読み返してみたら、「二年半」を思う、というのも書きたくなったので書いてみよう。
 二年目に思ったことは、基本的には自然の偉大さ、そして変わらない人間のていたらく、だったように思う。
 恐縮だが、最後の部分だけ貼り付けてみよう。

 それなら人間は、この「二年」で少しは自然に学び、新たな生き方を見出したのだろうか。
 どうもそうとは思えない。相変わらず現場に行かず、コンピューターの前に坐る人々が行政を主導し、過去のデータから未来を類推できると思い込んだまま、「途中」の今を過ごしている。今がどこへの「途中」なのかは、今後起きる未曾有の出来事によって決まるはずだが、それは未曾有なのだから知りようもない。結局、人は、そう簡単には変わらないということなのだろうか。
  夏草や強者どもが夢のあと
 芭蕉はそんな句も東北で詠んでいる。今は双葉郡の景色である。
 やがて南海や東南海に地震、津波がやってきて原発が二、三個やられ、夏草ばかり茂っている様子が目に浮かぶ。
 この「二年」、それを回避する道を選ぶこともできたはずだが……。

 二年経っても二年半経っても、事情はあまり変わらない。原発をどうするのか、という議論が大々的に行なわれた形跡もないし、福島第一原発の5号機、6号機、そして第二原発の廃炉さえ名言されない。
 福島県民とすれば、ぬかるんだ土地に立ったまま、新たな一歩を踏みしめられない状態と言えるだろう。
 そういえば、二年と二年半の最も大きな違いは、汚染水の漏出問題とオリンピック。この二つは、半年前には話題に上らなかった。汚染水は以前から漏れていたし、オリンピックだってずいぶん前から誘致活動をしていたわけだが、たまたま折悪しく、報道時期が重なってしまった。国や東電の幹部は、そんなふうに思っているのではないだろうか。
 福島県に住む私が言うと、一種の「ひがみ」のように聞こえることが危惧されるが、ここは敢えて言うべきと思うことを申し上げておきたい。
 じつに現実的な問題として、今は除染、防潮堤の建設、そして原発の作業員に、大量の労働者が必要とされながら、人集めにも苦労している状況である。そこにオリンピックのインフラ整備のため、また大量の作業員が必要になる。いったいぜんたい、そんなに作業員になってくれる人がいるのか、という問題である。すでに毎日新聞には、アジアからの労働者導入も視野にあるような政府の考えが紹介されていたが、本当にそうなのだろうか。
 条件のいいほうにどんどん人が流れるとすれば、当然のことながら汚染水問題を解決できない原発は最も人手不足に苦しむことだろう。あるいはそこにアジアの人々を想定しているのか、国はこのことを本当はどう考えているのか、訊いてみたいのである。
 もう一つは、オリンピックで使われる電力をどうするのか、という問題である。北京オリンピックの際は、たとえば山東省などの周辺地域で、昼間の工場稼働が禁じられた。オリンピックというのは、それほど大量の電力を使うイヴェントなのである。これまで東京が使っていた電力の、約25%は福島県の第一第二原発に依存していた。そんな状況で両原発の廃炉を希望することは、まるでオリンピックへの妨害にも見えてしまうではないか。
 オリンピック開催という事実は、だから福島県民が県内の原発の廃炉を望むに際して、大きな障害なのである。
 しかし少なくとも福島県民にとっては、今後も原発と共存していくというのは、できない相談である。
 国もなんとか覚悟を決め、新たな供給源を考え、創り、是非ともオリンピックは成功させて、原発の電気を使わなくともこれほどの「おもてなし」ができると、世界に示してほしいものだ。
 そして何よりも、それまでに巨大地震や津波もなく、富士山も静かで、日本各地が無事であることを衷心から祈りたい。

2013, 9/ 18