タグ: 放射能

同志

 南相馬へと向かう道は、新緑がじつに眩しかった。赤や茶色から緑そして黄色まで、新緑にはたぶん紅葉以上の色のバリエーションがある。そしてそこに、八重桜や山桜、里桜、ウワミズザクラなど、三春ではもう終わってしまった櫻の花や、桃、木蓮、山ツツジ、山吹などが順不同で混じってくる。土地の高低が激しい道だから、微細な季節感は混乱してしまうほどにあでやかだ。風を切りつつ走り抜けると、一気に早春から初夏へと走り抜ける気分になる。
 そんな佳い気分で走っていたのだが、案の定、少しずつ風景に異常が感じられてくる。飯舘村には相変わらず人影がない。それなのに、むしろラッシュと呼びたいほどに、多くの車が走り抜けていく。また福島市の大波地区あたりからは田圃が乾いたところが目立った。この季節は、どの田圃も水を張り、田植えの最中か終わったばかりの頃合いなのである。しかし田圃とは名ばかりの、草原のような景色が続く。場所によっては耕してはあるようだが、乾いたまま放置されている。あでやかな自然とは裏腹に、人々の営みがまるで「中絶」されているのである。飯館村の人が戻れない家の土手の草刈りをしているのが却って切なかった。
 突然お邪魔した新祥寺さんは曹洞宗のお寺である。以前、南相馬市の復興のための会議に来たとき、これまた突然にお邪魔し、本堂に安置された数十の遺骨に息を呑んだことを憶いだす。あの遺骨たちがどうなったか気になり、つい寄ってしまったのである。
 昨年の秋に比べれば、お骨は格段に減っていた。骨壺に番号が書かれたままの身元不明の遺骨はわずかに二つ。その二つを囲むように、身元は分かったものの遺族が仮設住宅住まいのため、しばらく預かってほしいと言われた遺骨が六つ置いてある。その後ろにある六つのダンボール箱は、これは海岸近くの墓地から津波で浚われ、散乱してしまったものらしく、住職さんは「これは結局、行政で慰霊碑かなんかを造って、そこに収めていただくしかないんでしょうね」と呟いた。
 仮設住宅の家族のお骨を指さし、私は言った。
「こっちは当分預かるっていうことでしょうね」
「ええ。当分、そうでしょうね」
 当分って、どのくらいなんでしょう、とは訊かなかった。ただ当分とは、便利な言葉だなと思った。黙って蝋燭に火を点け、お線香を供えてお経をあげると、後ろで住職さんのカメラのフラッシュを感じた。ここの和尚さんは無線とカメラが大好きなのである。
 話は早かった。お茶を一杯よばれる間に、私はここでの累積線量を測っていただけないかと頼んだ。三春実生プロジェクトの新事業で、全国各都道府県それぞれ2箇所のお寺に、町からガラスバッジを送り、まずは2ヵ月ほど身につけてもらい、日本各地の現在の放射線量を測ろうというのである。
 全体を知って、少し冷静になりましょうよ、というのがその主旨だが、和尚さんはそれも聞かないまま「はい、わかりました」と答えてくださった。
 私の手許には2002年の各県の累積線量一覧があるが、それによれば、もともと年間1mSvを超える県が10県ある。環境放射線といっても、昔降った人工的なものだって混じっている。福島県のものも、やがては環境放射線に含まれていくのである。
 調査結果については、後日実生プロジェクトのHPで公表する予定なので、お楽しみにお待ちいただきたい。

 さてまもなく新祥寺さんを辞すと、私は今回の目的である原町中央産婦人科医院に高橋亨平先生を訪ねた。以前からブログで注目していたのだが、どうしても直接お目にかかりたくなり、電話でお約束をいただいたのである。
 およそ一時間半にわたり、じつにさまざまなお話を伺ったのだが、ここでは少しだけその成果を申し上げておこう。「低線量放射線の問題は、すでに哲学的な問題」ということ。「被曝影響が蓄積するという誤解は、なんとしても解かなくてはならない」ということ。そして先生の持説でもある「子どもの被曝影響についての見直しの必要性」について、などである。
 すでに南相馬には先生によって除染研究会という組織も立ち上げられているが、今度は南相馬市立病院に、放射線のメンタルケアを専門にする科が設けられるそうである。この問題はすでに、そういう問題なのだ。
 面談後、夕日を浴びて帰る道もじつに美しかった。
 高橋先生は私が帰る直前にお寺に電話をくださり、戻ってすぐに掛け直すと、「同志を得たような気持ちですよ」とおっしゃった。どうもそれだけ言うために、お電話をくださったようなのである。
 そろそろ私も、新聞では書かれない問題を、発信していかなくてはならないような気がしている。高橋先生に「同志」と呼んでいただき、その思いはますます強くなった。    (2012, 5/13)