タグ: 新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

 明けましておめでとうございます。
 なんだか本当に、新年のご挨拶だけのためのyaplogに成り下がっていますが、お許しください。
 ではお許しいただけたものとして、例によって今年の行く末を干支から考えてみたいと思います。

 今年は戊戌(つちのえ・いぬ)の年。じつは戊も戌も、「茂」の意味を帯びています。植物でいえば、枝葉が繁茂し、風通しや日当たりが相当悪くなった状態といえます。
 政治の世界を眺めても、一強に対する勢力がうまくまとまれず、幾つもの枝が勝手に伸びて陽光を塞いでいるかに見えます。「戌(いぬ}は季節でいえば旧暦の9月で、時間でいえば午後7時から9時ですから、大胆な陽気はもうなくなっていると言えるでしょう。しかし「戌」の左側に付いた横「一」はわずかに残った陽の気ですから、ここでなんとか思いきった剪定をしたいものです。旧暦の9月といえば、庭を大切にする人にとっては最後の剪定を行なう季節なはずです。
 放っておくと光や風が通らなくなり、枝枯れ、ヘタをすると幹まで枯れかねません。どれを残してどれを伐るべきか、民進党じゃなくても悩ましいところかもしれません。
 同じことは個人の中でも起こっています。あれもしたいこれもしたい、というのは「陽気」がなさしめる欲求ですから、それじたいは尊重すべきですが、陽の気はあまり多くは残っていませんから、どうしても順番を厳格に決めることが必要になります。やりたいことが複数あるのは悩ましいですが、要は順番さえ決められれば何も問題はないのです。そして一番の順番の行動をしているときは、その他のことは一切忘れるべきでしょう。もしかすると、その思いが果たされたときには、2番目3番目の順番が入れ替わっているかもしれません。

 私は昨年ようやく「竹林精舎」という長編小説を仕上げ、1月4日(地方は5日以降)に上梓する運びになりました。長年の懸案でしたし、震災後の状況の変化で何度も書き直した作品なので、今回は相当嬉しさを感じています。六田知弘さんに写してもらった表紙写真も気に入ってますし、何よりこれを書き上げたらすっかり体調が良くなったのですよ。脱稿した直後に風邪を引き、そこで友人の医者が「血液検査もしておこう」というんで、やむなく検査してもらったのですが、これまで引っかかったことのない「中性脂肪」が跳ねあがっており、少々慌てたのです。また一昨年11月から最後の書き直しを開始したのですが、その直後からいわゆる「ばね指」になってしまい、鍼灸整体といろいろ試みてはみたのですが、目立った効き目はなく、ずっと左の親指が痛くて曲がらなかったのです。ところがこれが、「竹林精舎」の初校、再校と進むうちにどんどん動くようになり、3度目の校正が終わるとウソのように治っていたのです。その頃には(たぶん)運動不足による中性脂肪高騰も収まっていたのではないでしょうか。今はもう、なにかが抜け落ちたようにすっかり元気です。

 問題は、これからどうするか、です。やりたいことは幾つもあるのですが、まさにこの並び立つ欲望を「戌削(じゅつさく)」して、うまく剪定しなくては身が保ちません。あるいは、順番を決めなければいけない。不思議なことに「戌」という文字は、「いぬ」を意味するだけでなく、「まこと」「温気」「断つ」「美しい」などの意味もあります。勝手な解釈ですが、いろんなものが茂っているのは「まこと」だからですし、そこには「温気」もありますが、やはり「断つ」ことが大事、剪定すべきなのです。そうして思いきって伐り棄てると全体が「美しい」姿になる。そういうことではないでしょうか。じつは「戌」にはもう一つ、「あわれむ」という意味もあるのですが、これは伐り棄てたり、あるいはずっと待たせることになるモノへの眼差しでしょうか。

 久しぶりなので、またいろいろ書いてしまいましたが、とにかく今年も元気に書いたり拝んだり、笑ったりしたいものです。お寺の改修工事も仕上がる年になります。毎日朝から晩まで大工さんや様々な職人さんたちが出入りしていますが、彼らのコンスタントな精進に是非学びたいものです。今朝は5時から坐禅会があり、そのあと「大般若祈祷」。

 あ、そうそう。1月15日には朝日新聞社での「作家LIVE」で、道尾秀介さんと対談します。「竹林精舎」ができるまでの「意味のある偶然」がいろいろ種明かしされると思いますので、夜ですがご無理でない方はどうぞお越しください。

                                      平成30年元旦      玄侑宗久 拝