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福幸米

 先日、川内村にお邪魔してきた。
 遠藤雄幸村長さんに伺いたいことがあり、もう薄暗くなってから着いたのだが、ご自宅前で自転車に跨った村長さんは、そのまま私の乗った車を小松屋旅館まで誘導してくださった。
 その時の話の内容については、後日報告する機会もあるかと思うが、ここではその後にお邪魔した裏手の集会のことを書いてみたい。
 村長さんに案内され、店の裏のほうに従いていくと、そこにはおよそ30人ほどの老若男女が晴れやかな顔で飲食していた。幾つもの鍋を囲み、旨そうにどぶろくやビールを飲んでいたのである。
 いや、べつに何を飲もうと食べようとかまわないのだが、聞けばその人々は、主に関東から「福幸米(ふっこうまい)」づくりに参加するため、13日の田植えを手伝いに来た人々だったのである。
 急に「福幸米」と言われても何のことか分からないだろうから、順を追って話そう。
 ご承知のように、昨年の福島県内では原発から30キロ圏内が避難区域とされた。川内村は警戒区域にかかる地域もあるため、全村避難を決意し、主に郡山やいわきなどで避難生活を送ったのだが、じつは居続けた人々も40名ほどいた。今年1月31日の「帰村宣言」以後、現在では約500名ほどが村内に戻ってきた状況である。
 国の方針で、昨年は基本的に30キロ圏内での米の作付は禁止されたわけだが、同じ30キロ圏内でも汚染度はじつにまちまちであり、川内村には線量の極めて低い地域も多いのである。
 ちなみに私がお邪魔していた辺りの放射線量を訊くと、村長さんは「表で毎時0.15μSv」だとおっしゃった。家の中は「0.08とかそんなもん」というのである。再開した学校内も0.08だそうだ。これがどれほど低いか、お分かりだろうか。正直なところ、私はこれより遙かに線量の高い日本の都市を幾つも知っている。ここには具体的に書かないでおくが、この数字は少なくとも私の住む三春町の、およそ半分の値である。
 話を米に戻そう。そのようにマチマチの30キロ圏内ではあるものの、昨年は政府の方針に従い、川内村は試験圃場として秋元美誉さんの田圃に作付しただけで、それ以外は作付しなかった。そして注目された秋元さんの田圃の米からは、セシウムは全く検出されなかったのである。
 こうして、以前から秋元さんに農業を習ったり作業を手伝っていた人々が集まり、その日は「復活の米」プロジェクトと銘打ち、農作業開始の気勢を上げていたのである。
 以前、この雪月花でも、粘土粒子の豊富な、よく手入れされた田圃では、陽イオン化したセシウムが陰イオン化した粘土粒子に包み込まれるように合体し、通常の根からは殆んど吸い上げられないという話を書いたと思う。秋元さんの田圃は有機農法で、しかもEM菌も使っている。それでなくても低い線量なのだし、NDは当然といえば当然のことだろう。
 しかし問題は、できたNDの米の販路なのである。今年は村の方針もあり、作付は限られた地域になるが、来年以降も米が売れる保証はない。国は買い取るのか、東電は賠償するのか、あるいはJAは売り切れるのか、弱気になれば気になることばかりだが、自信をもって米作りをする以上、販路についても人任せにはするまい。「福幸米」と名づけて独自の販路を開拓しよう。秋元さんを中心に、そこにいる人々は皆そう考えているのである。
 福島どころか東北の農作物全体を一括りにする人々までいるなかで、じつに温かい気持ちを寄せてくださる方々も大勢いる。今後の努力を誓い、明るい展望を語り合いながら、彼らは楽しげに飲食していたということなのである。

 「放射能については、風評被害などない、すべて実害なのだと考えたほうがいい」。そう言い放った学者さんがいた。気になっていた哲学者だったが、決別である。
 もっと冷静に、この新たな自然に向き合ってほしい。地域の人々の営みを、見つめてほしい。そして外側でしか成り立たない「無難」な考え方に流れないでほしい。
 遠藤村長さんに案内され、私はそこでご挨拶したのだが、どういう集まりかもよく知らなかったため、トンチンカンな話をしてしまった。ここに改めて、応援の言葉を述べた次第である。
 川内村の安全で美味しい米を食べてみたいという方、是非、小松屋旅館の井出茂さんまでご一報を。
 Mobil:080-6650-2345 または Tel:0240-38-2033 まで。