日: 2011年6月15日

石巻市再訪

 6月6日、石巻市を再び訪れた。5月4日の視察以来である。一関にお住まいの曹洞宗の和尚さんからお便りがあり、五ヶ寺が壊滅した様子を見てほしいというので、女房と副住職と三人で行ってみたのである。まだまだ凸凹の目立つ高速道路だが、石巻までは2時間少々で着いた。待ち合わせの「道の駅」には奥さんと一緒にすでに後藤泰彦さんが待っていてくれた。
 石巻といっても合併後はとても広く、まず案内していただいたのは例の大川小学校だった。全校の先生と生徒108人のうち74人が亡くなってしまい、何度も報道されている。さすがに現場には異様な空気が立ちこめ、校舎手前の一角には祭壇が作られ、卒塔婆やお地蔵さん、花や玩具、誰かが描いた絵などが所狭しと置かれている。香炉の下のほうには「自衛隊第○連隊」と書かれたお菓子のような包みも供えられていた。私と副住職、そしてご案内してくださった後藤師とで般若心経を唱え、回向した。女性二人の啜り上げる声が聞こえ、我々も自然に涙が出てくるのを止めようがなかった。
 捜索が打ち切られたという敷地内では、何台もの重機が砂埃を立てながら瓦礫を片付けている。空は珍しいほどの快晴だった。「ここまで逃げてきて、ここで流されたんですよ」そんな話を伺いながら、敷地内をあてどなく歩いた。点呼をとっていたから逃げ遅れたとか、裏の土手に登れば助かったはずだとか、いろんな批判も交錯している。しかし誰でも冷静になれば、欠員の有無を確かめるのは当然だし、裏の土手は急すぎて却って危険だと気づくだろう。しかしまだみんな冷静になれないのだ。田圃だったという平地は真っ平らな泥の平原になり、そこがかなり深い水に埋まっている。一変した風景に、人の心も元に戻りかねているのだろう。
 次の目的地に向かおうとして乗った車の中から、棒っきれを持って地面や虚空をにらみながら歩く若い女性を見かけた。誰もが瞬時に、見つからない子どもを捜している母親なのだと了解した。
 次に行ったお寺は後藤さんの寺の法類らしいのだが、これは信じられないほどの壊滅状態だった。本堂は柱と屋根だけを残して南の島の小屋のようになり、木舞壁は竹の下地しか残っていない。また不思議なのは庫裏のほうで、二階部分だけが残り、あらぬ場所まで運ばれている。船が内陸まで運ばれたのだから何も不思議ではないのだが、どこを通って来たのかすぐには分からない。本堂の真裏の奥まった竹藪の横まで運ばれていたのである。二体の観音像は台座から落ち、両方とも顔面を砂に突っ込んでいた。庫裏があったという場所には土の中から鎖が顔を出していて、引っ張るとすぐに犬用の鎖だとわかった。犬も行方不明だそうだ。
 このお寺のほかに、法類(仏法の流れの上での親類)のお寺を三ヵ寺失った後藤さんは、居ても立ってもいられなくなって私に手紙を書いたらしい。一時は無事だった自分がなんとかしなくては、とも思ったらしく、何ができるのかと煩悶したようだ。
僧侶になっていない寺の息子のところへ出向き、なんとか後を継ぎ、なんとか建て直してくれないか、とも頼み込んだらしい。
 しかしその努力もむなしく、この頃にはとにかく時間のかかることだと、諦念のような風情を帯びていた。
 それから我々は、女川の海岸に近いお寺を訪ね、若い住職夫妻を慰問した。避難所になっている場所として後藤さんは案内してくれたのだが、何日かまえにすでに解散しており、やけに人なつこい3人の子どもがテントウムシを見つけて楽しそうに遊んでいた。
 石巻の海岸ちかくのエリアはとにかく何もかもが瓦礫になっていた。夕方、日和山公園に登ると、眼下にその廃墟のような街が燦々と夕日を浴びて広がっていた。神社の奥さんが、欄干に立てかけるように供えられた無数の花束を、古いほうだけ黙々と片付けていた。
 後藤さんと神社の奥さんとは、これまでにも被災者を挟んで交流があったらしく、ひとしきりその炊き出しのことを話したあと、夏祭りは絶対にしたい、という結論に達した。
 眼下に見える傾いたお寺の屋根。そこでは3月11日午後2:46、葬儀が行われ、その後の繰り上げ法要の最中だったらしい。一般参列者は逃げたものの、親族、喪主、そして和尚さんや故人の遺体の入った棺もろとも、津波に浚われてしまったらしい。
 無数の被災者に、日和山公園から祈りを捧げた。
 後藤さんはその後、「縁と祈りの”手合せ桜”を植える」プロジェクトを立ち上げたと、また便りをくださった。今回の全ての犠牲者数に因み、23,000本の桜を植えるというのである。万里の桜堤、桜の防波堤、桜の巡礼地、などの文字が趣意書には見える。ご興味のある方はこのサイトを覗いてみてほしい。
http://en.sizentai.net/
 後藤さんはまた、生まれ育った石巻市内に、今後は喫茶店を開いて被災者支援を始めたいともおっしゃっていた。
 本当に多くの人々が亡くなり、また本当に多くの神社やお寺もなくなってしまった。最も供養すべき時に、その根拠地が失われたのである。地域コミュニティーの大切な場所としてのお寺や神社の復興のため、微力ながら力を尽くしたいと決意した一日であった。
 その後、文化庁長官の近藤誠一氏にお目にかかる機会があったので、文化財という観点だけでなく、文化基盤としてのコミュニティ施設として、復興支援をお願いしたいと申し上げた。しかしそうなると、やっぱり担当省庁が違うんでしょうかねぇ……。
 とにかく今回は、お寺や神社もなんとか助けてほしいと思う。氏子も檀家もあらかた流された地区では、寺や神社の再建どころか継続すら難しい状況である。多くのお寺や神社がなくなりました、では、復興にならないのである。